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 キース・ジャレット・トリオのライブに行ってきた。キースはオレンジのジャムに泥を入れたみたいな色のシャツを着ていて、それが、とてもとても格好よかった。キースがピアノを弾いたとき、ピアノがそこにあってよかったなあと思った。私にはなにも必要ではないかもしれないけれど、だけど誰かがなにか言ったとき、そこに言葉があってよかったなあと思うし、誰かが歌ったとき、そこに空気があってよかったなあと思う。誰かが飛び込んだとき、そこに海があってよかったよと思う。そういうことを思わせてくれるひとや、ものが、どうしてそんな風にきらきらとたとえば私の目の前にあったりするのかと思って、私はぜんぶ、ぜんぶ嘘なんじゃないかって思うし、それはもう、さいこうの嘘だなって、いつも思うんだよ。
 この世にピアノが無くたって私はなにも困らないけれど、キースがいたから、私はこの世にピアノがあってよかったなあってすごく思う。そういうことは、ほんとう、どうしたらいいかわからないほど、うれしい。

***

 介在がこんなにも好きだな。その距離に生える木々が、湖が、雲が、雨が、こんなにも好きだな。だれかの立つ地平と私のあいだにある景色が、だれかのせいで、ときどきあまりにきれいだから、ずうっと見ていたいと思う。雨雲が私たちのあいだに垂れるだろう。その間隙を濡らす雨の一滴一滴が、こんなに光る。
 そしてなににも会えない。

***

 兄さんに会った。健康?って訊いたら、健康だよって言ってた。よかったねって言った。おまえはどう、って訊かれて、健康だよって言ったら、そう、って言ってた。
 兄さんと昔の話をした。浮遊感があった。傷つきながら喜ぶような、変な気持ちだった。俺はおまえのことそれなりに好きだよ。でもそれは、共有しているってことだけなのかもしんないんだよ。おまえが覚えているから俺は忘れられるのかもしんないんだよ。おまえが許していないから俺は許せるのかもしんないんだよ。おまえはそれがどのくらいつらい?って。
 つらくなんかないよ、すこしも。ねえ私たちは、私たちにこれから起こることのある、別々の不幸な出来事に、お互いそれなりに同情的になれるのかな、って言ったら、兄さんは変な色に染まっている頭を後ろにぐっぐと傾けて、ぽとぽとと黙って、それから、同情するよと言った。やさしい言葉だと思った。私は頭が真っ白になったから、うんってしか言えなかった。
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