• 05 «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • » 07
スポンサー広告
スポンサーサイト
-----------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
page top
日記
ゴールデンフィッシュのゆうべ
2010-06-14-Mon トラックバック : 0  コメント : 0
 きのうはボストン美術館展に行った。
 私は、こういう展覧会よりも、ひとりの画家の作品がたくさん集まっている展覧会のほうがどちからというと好きで、それは、さまざまな時代にさまざまな人が描いた絵画なんかが飾られていたりすると、ときどき、「なんでみんなそんなにこぞって絵ばっかり描いてるんだろ。ぜんぜんわかんないな!」って思っちゃうからなのだけど、昨日も思った。エル・グレゴの絵とかが置いてあって、ふああって思ったし、絵の中で教会の高い円柱にちらっと光が照ってたりすると、きゅんとしたりするけれど、これは第何回のこれこれという展覧会で好評を博した絵なんだよ!って解説が添えてあったりして、それがたくさん続いたり、絵と絵と絵が、多種多様だったりすると、そのぶんだけ、いったいどうしてみんなそんなに絵を描きたいんだろうって思って、絵、じゃん!とか思って、なにがなんだかわからなくなっちゃたりする。でも、モネの絵が飾ってある部屋で、モネの絵をみてたら、「そりゃ絵も描くよ!」って思った。モネがすごかった。モネがあつかった。はじめの数枚は「きれいな絵だなあ」「でも中に閉じ込められたら気が狂っちゃいそうな絵だなあ」って思ってみていたのだけど、積みわらのある草地の絵で、「狂ってもいいかも」と思って、積みわらの絵で「狂っていいね!」と思った。狂うならモネの絵に狂いたいと思った。積みわらの絵の隣は夜明けに青い教会の絵で、なにそれかっこいいよ!と思ったらその隣のセーヌ川の絵もかっこうよくて、その隣の睡蓮の絵は、大盛り上がりのコーダみたいだった。モネっていったらあれだよね、静かな水面に浮かぶ寂々とした睡蓮でしょ、とか思っていたけれどもなんだかぜんぜん違った。モネが好きだと思った。そりゃ絵も描くよねって思った。
 オルセー美術館展にもモネの絵があるみたいだからみに行こうと思う。ああ昨日は楽しかった。

***

 バイト先でお皿を運んでいたら女の子を連れた女の人に「こっちのコーヒーとこっちのコーヒーはなにが違うんですか?」と訊かれて、私はぜんぜんそんなこと知らないから、慌てちゃって、「あ、おいしいですよ・・・」って言って立ち去った。という話を友達にしていて、私のこの能力の低さをいったいどうしてくれようって言ってたら、友達は突然立ち上がる素振りを見せて、結局立ち上がらなくて、「リア充って言葉はこのごろまるで蔑称みたいになってると思うの。そこらへんの明るい女の子や可愛い男の子がリア充このやろうって言ってたりする。私はリア充という言葉に本来のポジティブを取り戻すため明日からボランティアに加わることにしました」って言い出した。いろいろなことにびっくりした。友達が私の話を一ミクロンくらいしか聞いていなかったというのは、いいとして、どうしてもう数ヶ月外に出ていない、このひとは、せかいじゅうのリア充の代表としてっていう姿勢で演説をはじめたんだろう、とか、ボランティアってなんだろう、とか、私はもともとリア充って言葉は特段ボジティブな意味で生まれた言葉でもないんじゃないかと思うけれど、それにしても、リア充のポジティブってボランティアみたいなことだったのか、とか、いろんなことがわからなくなった。でもわけがわからないのはいつものことだったから、私はカップラーメンをつくるために友達の家のキッチンに向かった。あのひとの言ってることはだいたいいつもわけがわかんないんだからまったくもうって思ってやかんを火にかけていたら「ちょっと!来て!ちょっと!」と友達が呼ぶので部屋に戻った。そうしたら友達は通りすがりの近所の野犬を部屋の中に誘い込もうとしてベランダから携帯の充電器のコードをちょろちょろ出したり引っ込めたりしていて、「なんだろうこのひと」ってここ最近でいちばん強く思った。野犬は牙がすごかったので、私は、ばあ!って手を広げて追い払った。友達に怒られた。食べるつもりだったのかもしれない。私はやかんの面倒をみにキッチンに戻った。いったいなんなんだ、いったいぜんたい、なんだかたのしいなって思った。
 彼女はいつか、「もうだれにも会えない」と言った。だから私と彼女はきっと会っていないんだろうと私はまだ信じたりしている。「間違っちゃった」と言って泣いたひとが、まだ、粘土をいじくるようにして大気をこねているのだって、そんな気がしていた。ほんのすこししか欲しがらないようにだけ生きている気がしていた。そして、野犬を誘い込もうとする彼女の丸まった背中にくっついた、まるい肩なんかが、黴てる窓の桟の横でちょっと光ったりしていて、「まるで」と思った。「まるで××のようだ」。そしてそんなことはどうだっていいのだった。やかんでお湯を沸かしてカップラーメンを食べるのだった。そんなことはどうだっていいと、あなたにも言ってほしいのだった。私はだからとてもいつもさりげなくしか、さりげなく、なにげなくしか。呼べもしない。
page top



管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック
トラックバック URL
Copyright © 2017 八帖帳の犬. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。