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日記
右に飛び退くべきだった
2009-07-18-Sat トラックバック : 0  コメント : 2
 きょう学校から帰ろうとしたら友達が「エヴァの映画みにいこう!」と言いだしたので、「もう観に行ったよ」と言ったら、「そんなことはどうでもいいよ!エヴァの映画がみたいんだよ!」と言うので、「私だってそんなことはどうでもいいよ、私はもうエヴァの映画をみたんだってば」って言ったら、私の素敵なおともだちは「私のためにきみは何度でもエヴァをみろよ!」と言いだしたのでヱヴァ破を観に行った。つぎの月曜日はテスト最終日で、それで受験生なのにヱヴァンゲリヲンを二回観るなんて信じらんない。電柱がとてもかっこうよかった。信号機も。

 帰り道にすこし失敗。これできょうはお風呂の中でシャワーを頭からざぶざぶ浴びながら「うへえ、やっちゃった、うへえ」とぶくぶく一時間過ごさなきゃならない。うへえ。

***

 私はいままで詩というものにすこしの興味も持たずにきたのだけど、たぶん今でもあまり興味がないと思う。ちゃんと言えば、たぶん他人の詩に興味がなくて、自分の詩にはあるのだけど。他の人の詩を読むことと自分が詩を書くことはなにもいっしょじゃない、のだろうし。人はいつ詩に興味を持つのだろうなあと思う。詩を読むことは私とって疎ましくさえあるけれど、読むと、人の詩を読むとやっぱりウワーンとなるときがあって、黙って読めばいいんだろうなと思う。いつもだいたい半分くらい読んだときに「読み始めて良かった!あぶないあぶない!」と思う。人の詩を読むことに積極的か否かというのは、私が人の詩にウワーンとなることに関係がないと思うのだけど、私は、人の詩を読まないまま人の詩にウワーンとなれたらいいのに、なんて考えている。
 私はいつも詩でなくて詩的なものを探していて、詩的なものにときめいて、傷ついたふりしたり、欲しくって欲しくなくって、それで最終的に求めてるのはだれかの詩なんだよ、ということに気付いていないだけなのかもしれない。詩的なものは詩、のようなものなのだよ、ということを知らなくて、詩的なものが詩になるのか詩から詩的なものが生まれるのかその両方なのか分からないけど、その繋がりを知らないんだと思う。私は永らく曖昧なものを憎んできて、それはきっといろんなもの憎むことなのだけど、だけどいつも詩的なものを探していたし、私はきもちわるいほど感傷的だったし、今もぜんぶそうだけど、だから曖昧なものの価値なんて認めないと言いながらバケツを持ってあちこち回っていろんなものを希釈してまわっていた。それは今もぜんぶそうだけど。みんな淡くなあれ、と思っているけど、私の脳みそはいつも固体が欲しくって、だって私はなんでもでろでろ溶かすので私の頭の中に固形のものなどなにもないので脳みそがずっと固形に飢えて「思想を!思想を!」って叫んでいて私は心底そいつを殺したくてたまらないのだけど。詩がビタミン色の固体になって、それを食べられたらいいのにな。胃袋で感じたいな。私おいしいものがだあいすき。大好きだよ。
 人の詩を読まないまま人の詩にウワーンとなれたらいいのに、と思う。わたし詩を読む人と書いている人がとても好きだと思うときがある。人の詩を読まないまま人の詩にウワーンとなれることはないのだし、だれかが書くから私だってウワーンとなるのだし、だって私にはよくわからなくて、よくわからないことを言っているひとはみんなすてきに思う。

(ところで現代詩フォーラムの、「ポイントを与える」ということばにいつもちょっと笑う。)
(与えるって日常で使わない)
(ぽいんとをあたえる)
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