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 私とっても好きと言いたい、私とっても好きと言いたい、私とっても好きと言いたい、ファストフード店の隅っこでレタスを囓りながらケルン・コンサートを聴いていた、私とっても好きと言いたい。
好きと言って欲しかったら、好きと言ってはいけないって、私が小学校六年間で得た知識はそれだけで、結局みんな超然とした人間が好きなんだよ、わかってるわかってる。なんて処世術は、大いなる欠点を持っていたね!処世術なんて言葉だいきらい!
 だってだれが想像したんだ、とっても好きと言いたくなるなんて、そんな事態をどうして想像できたと思う。「愛されるより愛したい」なんて曲が流行っていたの、あれは小学校に入る前か。私、意味が分からなかったもの、そんなの意味が分からなかったもの。
 さよならだけが人生ならばまたくる春はなんであろうって寺山修司は言ったけど、そんなのよりみんな、勧酒が好きに決まってるんだ!井伏さんは悪人です!このさかづきを受けてくれ、どうぞなみなみつがしておくれ、はなにあらしのたとえもあるぞ、そうだよそれは美しい。そんな事を言う人間は美しいんだろう、けど。
 私とっても好きと言いたい。私とっても好きと言いたい。目の前にいる人間に私があなたのことをどれだけ愛しく大切に思うかということを半日叫び続けたい、ああ、そんな暴力は!
好きって言いたい、好きって言いたい、好きって言って欲しい人に好きって言いたい、ああ、もう、ほんとうに間違っていたな!私はほんとうにわかっていなかったな!自分の欲求なんてなにもわからないな!
私はただただ認めて欲しくて、「私もあなたと同じだよ!同じだよ!」と言いたくて、それを伝えたくて、だって私にはみんなみんな美しく見えた、それは卑屈のたまもの。いつだって私がだれかを見上げてた。与えられるのを待っていたよ。だってみんな持っていると思っていたから、世界を均すことに必死だったよ。絶対量が決まってると思ってたよ。生成されるものと思っていなかったよ。世界を均すことに必死だったよ!
 私とっても好きと言いたい、なんて、どういうことなんだ一体、ぜんたい、わからなくなっちゃった。
みんな笑ってるから言えないけど、言えなくなってしまうけど、私とっても、とっても変な気持ちで、ファストフード店の隅っこで、レタスを囓って泣いていたんだ。こんなのってあんまりだ。私の夢が消えていく。こんなのはあんまりだよ、好き、好き。
 だれかの頭を鷲掴みして壁に打ちつけて打ちつけて打ちつけてあなたを誰より愛していると言いたい!そして、あなたは死んでたって生きてたっていいんだ。
なにが愛って呼ばれてるんだろう、それはどういう認識、だれかの口からでてくる愛って言葉。これは合ってるのかしら、やっぱり落第かしら。落第かしらね。
 ほんとうのことがあってもなくても、私は選びたいだけで、私は私が選びたいものを選びたいだけで、日常の中でさりげなく実現される優しさとか、そういうものに感化されながら、なるべく行きたいところに行きたいと思って。公園の親子連れだとか、晴れた日の恋人同士だとか、道路整理の男の人とか、ピアノの練習の音とか、どうでもいい景色を恨んだりして、そうじゃなくて、もっと底の方に、なにか流れるべきなんだ、とか。誰も私に気付かず、それは私だけが私のために苦しまなければならない事だけれど、矮小さがすべての苦しみになるなんて、そんなのは生まれる前に気付くべきだったんだ。
 不幸を想定して、ずっと険しくなれるけれど、弱弱しいけど穏やかさは、空気の止まるところは、それはそれで、やっぱり存在するんだと思う。ひどく稀なようで、いつも数に入れない空間も瞬間も、存在するなら存在すると思う。
 だけどいつだって先に優しさがやって来るから、どうしても感じられない、だけど私もなにか好きと言いたくて、なにかを大切にしてみたい。か細いものを壊れないように望みたいし、壊したいものを壊したくない。誰もが尊いと言ったものの尊さに今更蹴られたりして。

(なんだか、どうしようもなくとりとめがない。なにを言っているのかわからなくなっちゃった。)

 私はなにもわからないのに、町はぐるぐる回ってるし、でもそれはあまり敵でないようで、私は存在しないんじゃなくて、溶けてしまいたいんだよ、優しい気持ちになれたら、そのまま溶けてしまいたいんだよ。そういう、まるで死んでしまうような瞬間を時々想像して、信号とか、前を歩いてる人の靴とか、駅の向こう側は公園だ、とか、そういうことをね、そういう中でね、あのね、私たまに泣きたくなるけど、感謝していると思うよ。大好きなんだと思うけど、大好きと言うものがないだけで、だから泣いちゃうんだと思うよ。悲しいんじゃなくて、飽和してるんだと思うよ、私は満たされているんだと思うよ、しあわせなんだと思うよ、しあわせなんだと思うよ。
 こういう瞬間に、わたし盲いている、きっと。幸せなことを幸せと言えるとき、私はたくさんのものを破り捨てているし、大切なものも踏みにじっている。誰かのじゃなくて私の。「弱い人間なんて大嫌い」と強く思っていた頃と、同じような気味の悪さ、足場のなさ、が変わらないんだろう。行ったり来たりしているだけで、嫌悪に帰り正しさに帰り嫌悪を求めて正しさを求めている。罪悪感を感じることが醜いんだろうという予感。すぐ嘘になるものが感情なら、これは感情だけれど、一過性のそれが裏切ったもの、が取り返しがつかなくなった時に、私はやっと何かを得たり失ったりする。
 いろんなものを汚したいがために、私はいつも一生懸命だけれど、それはあんまり私一人の問題だから、共有しない視界で、世界を汚したって、世界は結局汚れない。それは救いにならないのかなあ。

(なんだか、どうしようもなくどうしようもない。なにを言っているのかわからなくなっちゃった。生活犬の敗北宣言なの。)

 思い出せない。私にも白熱した痛みがあった、ような、いつか。だけど、また忘れて、同じところを擦って、ああそうこれこれって、繰り返す。傷つけないようにするだけだ、景観とか、環境とか、地球とか彼女。傲慢かどうかなんて、いいんだよ。いいからもう黙ろう。
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